横須賀スキー協会 協 会 の 組 織
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■■  スキー協会の変遷 U ■■

(平成10年・協会創立50周年記念誌 より)
※ 記載内容は、平成10年当時です。
4.協会設立後の歩み
  協会設立時は、6つのクラブであったが、その後も継続して所属してるのは、平成10年現在共済病院山岳部(現共済病院スキー部)、浦賀ドックスキー部(現住友重機械工業スキー部)の2つだけとなっている。しかし、昭和30年に所属した関東自動車工業スキー部を始め、多くのクラブか参加し、現在は、職域のクラブ6、地域のクラブ7、大学1、高校1の合計15のクラブが所属している。
 昭和30年代は、関東自動車工業スキー部の他に横須賀スキーファーレン、東京電力火力発電所スキー部(現TEPCOスキー部)、ナギサスキークラブが参加した。
 30年代前半は、市民スキーの会も草津(30年)、志賀高原(31年)、燕温泉(32年)、富士山(34年)など各地で開催していたが、35年になって蔵王温泉で第1回目が開催されて以降、「市民スキーは山形蔵王」として定着した。
 また、昭和39年には第1回市民スキー競技大会が燕温泉で開催されている。競技部門については、国民体育大会に昭和41年まで毎年のように選手、監督などを派遣しており充実した時期であった。
 昭和40年代は、横須賀雪友クラブ(40年)、市役所スキー部(41年)が参加した。
 市民スキー競技大会は昭和43年に岩岳で第1回が開催されて以降、市民大会として定着した。
 また、同じく43年から県総合体育大会冬季大会に選手団を派遣してる。
 この時期は、市民スキーの会、市民大会、県総合体育大会の行事が定着し、現在の協会の基礎が固まった。
 昭和50年代は、千日スキークラブ(55年)が参加した。
 市民スキー競技大会は、年を追う毎に参加者が着実に増え、昭和56年からはレーシングキャンプを開催し競技層の拡大を図った。昭和56年には参加者が100名を超えた。岩岳スキースクールの努力により大会運営やレース環境が良いこともあって参加者の評判もよく、その後も順調に参加者を増やしていった。
 昭和60年代は、FURIN・SKI・TEAM(61年)が参加、平成に入ってからは、海上自衛隊スノーウエーブ(H 年)、アルファースキークラブ(H5年)、神奈川歯科大(H5年)、三浦高校スキー部(H6年)、H・Kスキーわらし(H9)が参加した。
 この他にいったん所属したが途中で退会したクラブに東芝スキー部(昭和56年退会)、もぐらスキークラブ(昭和58年退会)、シーレーベン、新雪クラブ、JNFスキークラブなどがあった。
 昭和60年には、冬休みの親子スキー教室の評判が高かったこともあり、春休みも開催することにしたが、教育委員会の委託教室とはならず、協会主催のファミリースキースクールとしてスタートした。
 昭和62年には市民大会が岩岳で開催して以来20回目を迎えたことを祝して記念タイムレースを開催した。
 昭和63年11月15日には、創立40周年記念事業として祝賀会を開催し、県スキー連盟や横須賀スキー協会に縁のある関係者の多数の出席をいただき盛大に祝うことができた。
 翌年1月に年号が平成に改まった。その年の4月には横須賀スキー指導員会が発足し、夏季講習会の開催や養成講習会を開催するなど協会と共にその活動を充実していった。
 平成2年には渡辺直人会長が勇退され、替わって古郡副会長が会長に就任し、協会も新たなスタートを切った。所属クラブも徐々に増え、組織的にも総務部、普及部、強化部の3部制をとるなど充実が図られた。
 開催行事も冬休み親子スキー教室、市民スキーの会、市民スキー競技大会、ファミリースキースクールなどの定例行事に加え、神奈川県総合体育大会への選手団派遣などその内容を充実していった。
 また、平成3年3月には、横須賀スキー界の将来を担う人たちを養成するため第1回ジュニアスキーキャンプを開催した。これは、長年続けている親子スキー教室だけではなく、子供だけを対象に開催したもので、協会スタッフの負担の大きい行事であったが、絶対に必要との判断から開催に至ったものである。
 平成6年2月には、強化部により第1回選手養成レーシングキャンプが新潟県浅貝スキー場で開催された。
 さらに同年3月には、協会主催だったファミリースキースクールがその実績を買われ冬休み親子スキー教室と同様に教育委員会の委託スポーツ教室となった。
 平成7年11月15日、横須賀スキー協会創立の立役者であり、今日の協会の基礎を固め、発展させてこられた渡辺直人前会長が亡くなられた。故人を送る葬儀には市協会関係者だけではなく、県連など各方面から多くの方々が参列され最後のお別れをした。
 平成8年9年の両年8月、スキーシーズン以外でも岩岳スキー場との交流を図り、親交を深めるために交流会を開催した。協会側からは役員などが参加し、サマースキーやハイキングを楽しみ、夏の岩岳を満喫し、河原でスキー場の関係者とバーベキューを開いて交流を深めた。
 平成9年2月3日の市民大会終了後、後片付けも一段落したところへ上島秀男県連監事(市協会常任顧問)の逝去の報が届いた。上島氏は病気療養中ではあったが、最後まで県連、市協会のことを気にかけておられた。その人柄を偲んで、葬儀には渡辺会長と同様に広く各方面から多数のスキー関係者の参列をいただいた。
 同年3月1日、2日の県総合体育大会では、選手の果敢な健闘が光り、上位を占め、初の5位入賞を果たした。市民大会、選手養成レーシングキャンプなどの成果が実を結んだ結果と言える。
 平成10年2月には、今世紀最後の冬季オリンピックが長野県で開催された。市民スキー競技大会は、例年2月の初旬に開催していたがオリンピック開催と重なったため、岩岳スキー場関係者の心遣いで1月に日程を変更し、開催することができた。オリンピック開催年に同じ長野で開催でき、いつまでも思い出に残る大会となった。

5.将来への展望
 本市は無雪県に位置しており、スキー場も遠いことから、スキーに接する機会が少ないのは残念なことである。しかし、近年、高速道路の延伸、新幹線網の拡張が急速に行われたことにより、本市と各スキー場との時間的距離が短縮され、スキーがより身近なものになってきた。
しかし、現状は、スキースポーツの楽しみ方自体が多様になってきている。たとえば、競技会をめぐっても、それ自体を目的として参加する人がいるし、自分のスポーツ活動を継続するための手掛かりの一つとして参加する人もいる。さらに同じスキースポーツを行っていながら、競技会にはまったく関心を示さない人もいる。
 このようにスキーの楽しみ方が多様化した原因としては、スキーをする人々の年齢の幅が広がったこと、人々の人生に対する価値観、スキースポーツに対する欲求が多様化したこと等が考えられる。
 かってのような「若い人は勝つことをめざす」という時代から、「高齢者でも勝つことをめざす」「若い人でも勝つことをめざさない」という時代に変わったのである。
本市は人口も43万人を数え、今後スキーに親しむ人が益々増えることは間違いないと思われる。
 当協会ではそうした状況のなか、各種のスキー行事を開催することによってスキー技術指導に加えて、マナー指導も行うことによって本市のスキーの普及、発展に寄与していきたいと考えている。
 親と子供を対象とし、スキーを通じて青少年の健全な育成と親子のふれあいをはかる目的の親子スキー教室、ファミリースキースクールは、将来横須賀のスキー界をささえる人達が育っていくであろう。さらに、今後子供達を対象としたレーシングキャンプを開催し、競技スポーツとしてのスキーの普及を計るとともに、国体を目指す選手の育成を行いたい。
 一般市民を対象とし、スキーの普及をはかる目的の市民スキーの会は、長い歴史を誇る行事であるが、近年参加者の減少が見られる。自家用車の普及やコマーシャルベースのスキー旅行が氾濫するなど種々の要因があると考えられる。今後はバッチテスト、受験のための講習会を充実させ、広く参加者にアピールしていきたい。
 更に一般市民を対象として競技スポーツの発展を目的とした市民スキー競技大会がある。
本大会は年々参加者が増えている。昭和63年には21回を数える大会を通じて競技スポーツの普及、底辺拡大がされてきた結果と考えている。
 現大会の前に参加者を対象としたレーシングキャンプを開催しているが、初心者にも枠を広げて参加者 200名以上の大会にしていきたいと考えている。
 これらの行事をさらに内容を充実させ、飛躍させることが協会役員の役割であると思うが、実際に各行事を支えているのは協会理事を中心とした実行委員会である。
 しかし、各委員会の苦労は大変なものがある。委員各自が知恵を出し合って毎年乗り切っているのが現実である。
 協会は参加11クラブから選出される理事によって運営されており、その中から実行員会が構成されるが、委員の固定化がみられるため、すこしづつ若い人に参加してもらっている。
今後若い人達に積極的に参加してもらい、行事運営の苦労を共にすることで、協会が持つ1の役割である協会員の人格育成が行われると共に、協会というものを理解してもらうことができると考える。
 また、そうすることによって初めて、将来に渡って安定した協会の運営がはかれるものと考える。
(以上 40周年記念誌より)

 以前は、スキーといえばアルペンかノルディックでどちらも2本のスキー板を履いて行うものであり、ゲレンデではスキーが当たり前で、たまにモノスキーなどが出てきたが流行するにはいたらなかった。
 しかし、10年前にはまだ肩身の狭い思いをしながら滑っていたスノーボードが近年はどこのゲレンデでもあたりまえのように滑走している。
 流行に敏感な若者は、スノーボードのフリーな感じのファッションにあこがれるのか、取り組む人が特に多い。ここ数年、市民スキーの会にもスノーボードをもって参加する人がでてくるようになった。
 長野オリンピックでも公開競技としてスノーボードが開催され、ますます注目されるようになってきた。今後も単なるファッションやレクリエーションではなく、競技を目指す人が多くなることが予想される。
 こうした状況から当協会でも平成10年度からスノーボードを担当する役員理事をおき、その対応をしていくこととした。
 また、スキーそのものも競技スキーにしても基礎スキーにしてもより専門的に取り組む人が増えてきた。さらに年齢層にしても競技スキーの参加者は小学生から60歳以上の方でが参加するし、市民スキーの会のようなレクリエーションスキーは、高齢者の方の参加が多くなる傾向にある。
 このようにスキーをとりまく状況がいろいろな面で多様化しており、スキー協会としても柔軟に対応していく必要が生じている。なによりも大切なのは、協会を運営するスタッフであり、単にスキーが上手というだけではなく、スキーを愛して、多くの人々と協調して共に楽しく取り組める人が求められている。
 現在の役員、理事は、横須賀スキー協会の50年という長い歴史を支えてこられた諸先輩方が築いた伝統を誇りするとともに将来の人々にも誇りに思ってもらえるような歴史を作るべく努力することを誓わなければらない。
(以上、50周年記念誌より)


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