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横須賀市におけるスキー・スノーボードの主要な拠点となるべくスノースポーツの普及発展の為に活動を行っています。

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協会の変遷T

■■  スキー協会の変遷 T ■■

(昭和63年・協会創立40周年記念誌 より)
※ 記載内容は、昭和63年当時です。
1.戦前の協会設立の背景、動き、歩み
 昭和10年頃の横須賀におけるスキーは、軍港都市として全国から集まった海軍関係者の雪国出身のスキーヤーが多く、県下のスキー大会で活躍した。
 当時の新聞報道によると、軍港地より、第12回オリンピック東京大会及び第5回冬季オリンピック札幌大会に向けて、代表選手を送り出そうと盛んであった。
 本市では、体育協会が、昭和10年11月3日設立によって、個々に活動していた横須賀スキー倶楽部及び横須賀スキー連盟が、会員の獲得と会の充実を計るため合併し、昭和11年10月1日、横須賀スキー協会が、会員 200名を組織し設立した。会長 平林耕司、副会長 荒井・児島、評議員 結城横須賀駅長、会計課長 山口、幹事長 内山、幹事 長澤の各氏であった。
 協会設立記念として、10月8日、スキーの夕を隣保会館で、 1,000人の参加者を集め開催した。内容は、講演、映画を行いスキーの知識と技術の普及に努めた。参加者も、大自然の高嶺に、次々に描くシュプールと未踏の粉雪をけって、美しい弧を描く爽快なスキー映画を見て、興奮のルツボに叩きこんだと新聞に掲載された。12月14日には、初心者スキー一夜講習会を諏訪小学校で開催し、講演と指導を行い、壮快なスキー映画を上映した。実地訓練を26日から30日まで群馬県水上温泉で、昭和12年1月1日から5日まで群馬県四万、栃木県塩原、長野県新鹿澤の各温泉スキー場で実地指導訓練を行った。協会として初心者のため貸出用スキー10台を揃えた。参加申込先は協会事務所、児島運動具店、小泉運動具店で受付を行った。
 昭和12年1月17日、第1回市民体育大会スキー競技会を富士山麓山中スキー場で開催した。競技種目は、14種目で、不倒滑降、みかんとり競走、クリスチャニア、ストック取り競走、2人滑降、テレマーク、登降競走、スラローム、障碍物競走、直滑降、4Kレースなどで、特に真島七郎選手が大活躍した。
 当時は、各新聞に、スキーの流行に伴いスキー技術関係等の連載が各新聞誌上をにぎわせているほどスキー熱は高まり、上越の処女雪は招くなどと宣伝し、「スキーが何故流行するか知ってるか?」「面白いからでしょう。」「それ以上だからだよ、若い男女が夜は炬燵で手や足が触れるそれでスキーが流行するんだよ。パーマネトウエーブがドテラを着た姿なんて、エーもんじゃ」などとスキーの魅力は夜だという不心得の人もいる。などと新聞に載るほどであった。
 昭和12年12月には、第2回市民体育大会スキー競技の参加募集とともに、スキー用具と服装の貸出しと技術指導を行い、各地スキー場の斡旋便宜も協会として取扱いスキーの普及と会員獲得に力を入れた。
 昭和13年1月1日から5日までスキー講習会を上越国境岩原スキー場で50名が参加し開催した。主旨は「事変下の銃後青少年の皇国精神を鍛練陶治すると共に剛健発刺たる気風を作輿し併せて国民本位の向上を計らんとす」で、会費14円(3泊10食旅館共)、申込所は、小泉運動具店、さいか屋運動具部、児島運動具店であった。講習会開催主旨で当時の困難な状況が推察される。
 逸見小学校では、大気の中に勇躍、奥地を征服せんとのスローガンによって、スキー部を設け、1月3日から5日まで、宮城県蔵王遠刈田温泉を中心に先生や生徒が猛練習を行った。
第2回横須賀市民スキー大会を、参加資格を協会員に限り、昭和13年1月16日、富士山麓山中湖畔ゴルフリングで開催した。大会役員は、大会長 鈴木横須賀市長、大会部長 平林耕司、総務部長 成川降明、審判長 小島萬助等であった。競技種目は、各クラス別14種目で盛大に開催した。
 当時、日本においても、昭和11年の前後数年間は、スキー技術の大きな変動期、革新期であり、その原動力はアルペン競技であった。スキー界に試行錯誤の新しい時代がはじまり、外傾技術とローテーション技術が共存した。この期間は、未解決のまま戦後に持ち越されるほどスキー熱は盛んであった。
 昭和12年には全日本選手権大会で初めてのアルペン種目が、伊吹山で男子新複合、女子滑降のみが開催された。
 県下にあっては、昭和13年頃より連盟結成の気運が高くなってきた。当時の県体育運動主事佐藤秀三氏が県内のスキー、山岳団体に呼びかけて、昭和14年2月17日神奈川県スキー山岳連盟が誕生した。
 早くもこの年の3月、第1回県スキー大会を信州志賀高原で開催した。この大会に横須賀スキー協会代表として5名が出場して、特に真島七郎氏が優勝している。翌15年の第2回大会から、明治神宮国民鍛成冬季スキー大会の予選を兼ねて開催されることとなり、真島七郎選手は本県代表として出場、雪なして常時練習もできない環境にありながら、雪国の強豪を相手に善戦し、本協会の意気を示した。
 しかし、昭和13年に日華事変勃発のため、第5回冬季オリンピック札幌大会、第11回オリンピック東京大会とともに返上するに至って、軍港スキーとして発展したスキー協会も戦技スキーとしての戦時体制に突入し、スキーを持って列車にのるなど思いもよらぬこととなり、スキーのみならず、我国のスポーツの暗黒時代となった。
 本市のスキーの発展は、軍港として戦争に直接関係し無雪市であっても、本市選手が全国大会まで出場することができ、市民の関心も高まりとともに、スキーへの愛着と熱意は断ちがたいものになっていたのに、戦争による中断はあまりにも悲しい痛手となった。

2.戦後の協会設立の背景
 戦後いちはやく同好の士によって横須賀スキー山岳協会が結成された。事務所を玉屋運動具店におき、笹口晃会長、小杉芳治副会長、吉田徹男理事長のもとに昭和23年5月1日再発足した。当時の社会情勢は、敗戦による虚脱状態が続き、衣食住の不足、社会不安となって現われ、山やスキー行はなかなか困難な時代であった。
 しかし、こうしたなかに微力ながらスキー山岳道徳を通じて人心の安定に寄与すべき行事と行動を実施していった。
 戦後のスキー協会のスキー活動は、昭和24年1月に当時の市教育部社会教育課の矢島信治と協議して、市民スキー講習会を開くことからスタートしたといってよい。
 場所は富士山麓、宿舎は太郎坊の営林署小屋(冬は無人)が選ばれた。当時は何もかも不足の時代で用具、装備、食糧などの調達に加えて交通問題など担当の苦心であった。
 参加者総勢17名。1月14日夜行で御殿場着、ここでバス会社と交渉して五本松まで運んでもらい、そこから徒歩で太郎坊へ、スキーはもちろんのこと、予備食糧は別に2泊3日分の主食、副食、調味料一切、着替類、防寒具を入れたリュックは重く、更に燃料として木炭2俵を荷あげした。夜半、小屋に着いたが、月はこうこうと青く、風はヒューヒューと鳴って肌を刺し、印象的な夜行軍であった。スキーは二子山付近で行い、講師は白石栄三氏が当り和気あいあいのうちに富士山麓スキー行は効果を収めて終了した。
 帰横後、当時の太田市長に報告したところ、「特に若い人たちを対象とした行事をすることは非常に有意義だ、今後も大いにやるべし」と激励され、一層の奮起を誓った。
 更に翌月21日、22日には、赤倉スキー場にて第1回市民スキー競技大会を開くという矢継ぎ早の熱の入れようだった。
 参加者21名。滑降、回転、耐久などコースは極めて幼稚なもので、まだ出場者も少なかったが、宿舎岩崎屋主人北村氏の指導とお世話で第1回としては非常に有意義なもので、榎森、矢島、亀井、白石等の選手が大活躍した。この第1回がきっかけとなり、翌25年の県スキー大会にも榎森、安藤、白石の3人が戦後初出場した。その後、年と共に多数の選手が参加するようになった。

3.設立時の動き
 昭和28年9月18日に市内在住のスキー同好者が相寄り一堂に会し、横須賀スキークラブ(初代会長 白石栄三氏)が誕生した。ただちにスキー山岳協会に加盟し、スキーに関する一切の推進母体となり、県スキー競技大会、市民スキー競技大会、市民スキー講習会、スキー映画会開催等に活躍を始めた。
 更にそれに拍車をかけたのが、第10回国民体育大会を神奈川県下で開催するに当り、県スキー山岳連盟が発展的に解消、スキー連盟と山岳連盟に分離、これに呼応して本市スキー山岳協会も昭和29年6月10日に2協会に分離し各々新発足するに至った。
 スキー協会の初代会長に白石栄三、副会長有田祥二郎、理事長渡辺直人を選出、横須賀スキークラブ、ごてんぐ会、共済病院山岳部、浦賀ドックスキー部、基地スキー部スキーフレンドの加盟6団体をもって組織され、事後順調な発展をたどった。